剣から起きる

植芝盛平翁先生は、「剣から起きる、剣が元だ」と仰られました。

また、「合気道を修業する者は、剣を持てば合気剣法に成り、杖を持てば合気杖術に成らなければ成らない。剣も杖も体の延長であるから、血が通っている如く扱う事が出来無ければ、真に合気道を鍛錬したとは言えないのである。」と仰られておられます。

合気道「眞武館」道場では、その為武器技の稽古を必須としております。永らく武器技の指導をさせて頂いて参り、最近では初心者の時点から剣や杖に親しむ必要性を感じております。

武道の世界ではよく「平常心」の養生を目的とするといわれますが、合気道では「正勝吾勝勝速日」をその目的とすることが究極の「平常心」の養生であると考えております。「たゆまぬ努力」で「正しく勝ち」、競い合う心を抑え「吾に勝ち」、そして常に争うことが無い必勝の「勝速日」の栄光を得る事が「平常心」の養生です。

「平常心」を得たものは、身体に力みが無くリラックスし、脱力した自然体で立つ事ができます。剣を振り上げ振り下ろす際にその腕は脱力し各間接は自由自在に動きます。

腕に力みが入った剣の素振りは見苦しく、剣先のスピードも出ないものです。正しくリラックスした剣の素振り動作は脱力した中に剣の鋭さが宿ります。

徒手技となったときもその徒手に力みが有っては受けの動きとぶつかり正しく受けを導き崩す事ができません。各関節が固まり、ただのぶつかり合いの稽古となります。正しい徒手技の動作は植芝盛平翁先生の仰ったように「剣から起きる、剣が元」となります。

剣の正しい振り方を知らずして徒手の正しい振り方は分かりません。植芝盛平翁先生の仰る「合気道を修業する者は、剣を持てば合気剣法に成り、杖を持てば合気杖術に成らなければ成らない。」とは、体道さえすれば剣が使え、杖が使えると仰っているのでは無く、「剣から起きる、剣が元」なのですから、その理合いは「剣から起きる、剣が元」とならなくてはならないと言う事を仰っておられるのだと考えます。

永年剣や杖の研究を致しておりますと、いかに剣や杖の素振りが徒手技にとって大切な修行でありその理合いを知る事がしいては徒手技の理合いの理解につながる早道であると言う事を思い知らされます。

腕押さえは、上から乗ったり押さえるのでは無く、剣の切り上げ切り下げ動作で受けの腕と競い合ってぶつかる事無く押さえきるものである事の理解が深まります。

習わぬお経は読めません。先ず武器技を始めようでは有りませんか、触れてこそ剣や杖を修練する事の長所と短所が分かるものです。概念だけで武器技を習わなくても良いと説く方が非常に多いように思えます。

我が眞武館の属する公益財団法人大阪合気会の始祖であり、私の師である門川師範のその師であられる故田中万川師範も「16の杖」を図解までして遺されました。小説「黄金の天馬」や合気道関係の書籍の中でも植芝盛平翁先生と京都の鞍馬寺で深夜に暗闇の中で真剣で剣の修行をされた逸話も残されています。

今、合気剣や合気杖の修行を否定されるのは植芝盛平翁先生や万川師範を否定されておられるように思えてなりません。我が合気道「眞武館」道場は私の師である門川師範を見習って、植芝盛平翁先生や万川師範の合気道を追い求め続けたいと思います。