合気道における「平常心」とは

武道において、よく「平常心」の養生と言う事が語られます。合気道において「平常心」とはどういうものなのでしょうか。

合気道「眞武館」では、合気道研鑚の究極の目的は「平常心」の養生だと考えて指導させて頂いております。

合気道において「平常心」の養生は「正勝吾勝勝速日」で表され、また、この「正勝吾勝勝速日」は「合気道」そのものを指すものであり、他の言葉では我が道場名である「眞武の道」であると故植芝盛平翁先生は仰っておられます。

以前にも「正勝吾勝勝速日」については記述させて頂いておりますが、昨今、ますますこの「正勝吾勝勝速日」と言う文言に対しての想いが深くなってきております。

以前も書きましたとおり「正勝吾勝勝速日」は「継続は力なり」の教えの通り、まさしく「たゆまない」と言う「正しき勝ち方(正勝)」で「ともすれば競い合おう、争おうとする吾に勝つ(吾勝)」、その勝ち方は「日の昇るような瞬時の速さで勝利栄光(勝速日)を得るもの」で無ければなりません。

合気道は天から与えられた「天地神人和合の御業」であるので最初から勝っているのが当り前(正しい勝利=正勝)でありそれが「勝速日」と言う事でも有ります。

つまり「正勝吾勝勝速日」は「合気道」そのものを表しており、「正勝吾勝勝速日」の境地は争わず、競い合わず、臆さずの「平常心」の境地と通じる物であると考えます。

また、「平常心」とは「先」を争ったり、「技」を競ったりの穢れた魂を浄化した「スミキリ」の境地でなければなりません。

「平常心」を持ったとき、体から余計な力みは消え、脱力した自然体となるため「合気道に構え無し」となるわけであり。相手より早く動いて「先の先」を取るとか、遅れても「後の先」を取るなどと言う競う心も必要なく、ただただ理合い通りに動けば相手が入り身転換に応じて引き込まれ、己が動作と共鳴・反射して技となるのが合気道であると考えております。

以上の事が常に体現できれば合気道の修行を卒業する事になるのでしょうが、煩悩な私にはなかなか難しい道で修行は一生を賭ける事になろうかと思えます。

その事を「合気道に一生懸命」と申すのだと思い、日々一生懸命に稽古に勤しんでおります。

最近分かってきた事は「座技呼吸法」にはテクニックは無いと言う事で、以前は「煽り」や「抜き」とかの技法で説明して指導させていただいた事も有りますが、「ぶつからず=争わず」の理解が深まると共にその様な技法などを使わずとも万人が簡単に座技呼吸法を本来出来るにもかかわらず「魄」の稽古に陥り、「魂」の養生が出来ずに争いぶつかっている為に体現できないと言う事が分かって参りました。

合気道を知らずとも「スミキリ」の境地が出来れば「座技呼吸法」は力では無く呼吸で簡単に実現できるようになります。

それは単に競う気持ちを無くし、「平常心」で心体(魂魄)ともにリラックスして全身を脱力することにより手首、肘、肩の関節を自由にすると、ゆっくりとした動作であっても強く抑える受けとぶつからずに軽い力で座技呼吸法が可能となります。

そこには、力のぶつけ合いや押し倒しの次元では無く、単に相手と結び自身の腕を上げ、受けを導き崩し倒す次元に入ります。

つまり技の稽古よりも魂の稽古や養生、鍛錬が重要であり、その事がつまり「平常心」の養生につながり「正勝吾勝勝速日」の自己体現につながり、それが合気道そのものであると考えて、我が合気道「眞武館」での日々の指導と自己研鑽とさせて頂いております。

日本武道で強く求められる「平常心」、それは「合気道」の中にあり、「合気道」そのものであると信じます。それが今の「信念」であり、「合気道」こそ真の武道「眞武」です。