恥の文化への誇り

アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトによって日本敗戦の一年前に書かれた「菊と刀」の中で欧米の「罪の文化」に比して日本文化を称して「恥の文化」と評されました。

一説には敗戦後の日本統治の青写真として利用されたともされるものですが、私自身は日本文化は「恥の文化」という表現は正しいと思っています。

神に対する罪を恐れて自分を律する欧米と異なり、八百万の神々への信仰はあっても神が律された事に沿うというよりも世間の目や周りの目から見て恥ずかしくない行動をとろうと自分を律する日本的な感覚は時に良い面と悪い面が現れます。

ベネディクト女史も、「恥の文化」は正義より名誉が優先され、個人の道徳心が回りの環境により左右されてしまうと問題提示されているのですが、私は概して功罪有る内の良い面が現れる事が多いと思っております。

「武士は食わねど高楊枝」とか「人は一代、名は末代」、「トラは死んだら皮を残し、人は死んでも名を残す」等の諺にその一端が見られます。

一見、神の教えや法律は不動のように考えがちですが、その解釈や法改正で変化のあることには変わりはありません。

その時代時代で恥とする事が変わる弊害は戦中戦後に「虜囚の辱めを受けるより死を」と言った現在では正しいとは言えない基準がまかり通ったりする弊害もありましたが、良い方向に解釈して「世間に恥をさらさない」として行動基準を自ら設けて自分を律する事は良い事だと思います。 要は何を「恥」とするかが大切です。

ただ、昨今は学校教育の場での「道徳教育」がおろそかにされている事も大きな一因だと思うのですが、この「恥の文化」がおかしな方向に流れています。「恥」の基準が悪しき方向に向かっています。

「偽装食材」事件では世間に恥をかきたくないと「虚偽」の発表を重ねて本当の「恥」を世間に呈した企業トップのおろかな行動は「恥の文化」の功罪の罪の部分が大きく出たのでしょう。

天皇陛下に手紙を手渡して「政治利用ではない」と嘯き、議員でありながら自分の無知を「知らなかった」でまかりとおすパフォーマンス男においても真の「恥」を知らない輩が日本に増殖しており、誇るべき日本文化である「恥の文化」をベネディクト女史の指摘通りの諸悪の根源であると自ら認める行動だと思います。

真の「恥」とは何かを今一度良く考えて自らも行動したいと思います。それには自分を律する規範をどこに求めるかだと思います。

本来は幼少期の家庭での教育や学校での「道徳教育」が正しい人生規範を育むべきであり、この責任は各家庭と重きは国家政治にあると考えます。

この両方が崩れてきているのが我が国「日本」の現実かと嘆かわしく思います。

この悪しき現実は道徳教育を受けなかった世代が親の世代や教師となる事で悪い方向へのスパイラルとなって加速されがちであり、修復には大きなエネルギーが必要となっております。

ただ、我々合気道家はある意味幸せだと思います。

その自己を律する規範を大先生や諸先輩の先達の方々が示して下さっているのですから。

合気道は「魂魄」共に鍛錬していく道です。今後も合気道家として自分を律して「恥の文化」を大事にしていきたいと思います。

「天の浮き橋に立て」と仰られた大先生のお言葉を改めて噛み締め、この必要となる大きなエネルギーの根源となりたいとと思います。