本質を見失う

とある都市の長の方の言動が話題になっている。

教師による暴力事件があった学校の入試を中止するかどうかと言う話題で、中止の申入れを明言した市長のパフォーマンスの派手さや圧政が非難され、受験の機会喪失や大事な時期に動揺させた事が批判されている。

この方については以前はたいしたものだと敬服していたのであるが、他人批判のツイッターでの記述内容を拝見してから、その下品な言動や振る舞いに大きな落胆を抱いた事が思い起こされる。

多くの一般の方々を率いる大都市の長として品格も大事な要素だと思われる。同じ事を主張しても品格をもって相手とぶつからずに話し合えるかどうかでその方の人格自体が決まる。今回の騒動でもこの品格の無さで批判を浴び、本来主張されたかったであろう部分がその批判に覆い隠されて話題の本質が見失われてしまったと残念でならない。

彼は間違いなく、入試で新たな犠牲者を増やす恐れもあるから先ずは学校改革を行って、安心して学生を預けられる体制にしてから新たな学生を受け入れようと言う考えだと思う。

この考えに反対のものは居ないと思うが、彼の人はその主張の表現方法や実施の仕方、説得の仕方に品格上の問題があり、この点の批判にフォーカスを移してしまって論客や一般の方々に争点の本質を見失わさせてしまった。

ヒール役として注目を浴びる事が目的であったのであれば大成功であるが、そうとも思えない。他を批判する前に自己表現の仕方について一考すべきであると思う。

さて、本来の本質の部分であるが、彼の市長さんが主張されるように教育長や校長を始めとした教員の面々は一人の人間が死亡しているのであるから事件発覚後直ぐにでも教育現場の改善に取り組むべきであった。事件発生から相当の時間が経過しているのであるから入試が近づいた今の時期に成ってからこのような案件で騒動が起きる事自体がこれらの方々の手抜きを明確にしている。本来批判されるべきはパフォーマーの市長ではなくこれまで放置してきた彼の人々であると思う。

人一人が亡くなった場合、これが教育現場では無く一般の企業であったならば、職場でのパワハラ事件として懲戒解雇や責任者の懲罰は必至であり、早々に対策が取られる。刑事事件として警察の介入もあり得る。

何故こんなにも日がかかるのか?

マスコミもお騒がせパフォーマンス人間の批判に汲々として踊らされる事なく、本来批判すべきところを批判し、一般の方々も事件の本質を見失わないで頂きたい。

学校では朝礼で弔意を述べ、反省を校長が述べ、全校生徒が黙祷し、儀式のように日々が流れていつの日か記憶が薄れていく。その様な時の流れに飲みこまさせず。教育現場の改革に話題を絞って二度とこのような教師による暴力で生徒が傷つき、自殺するようなことが無いように願いたい。

本質は「徒に競い合わない」と言う合気道の教えと異なり、スポーツでの競争に躍起となり、それを教育と称して勝つ事に拘った結果の暴力パワハラ体罰事件である。本来批判されるべきは暴力教師とその様な環境を助長した責任者である学校長や教育長であり、そこを攻めた品格の無い市長ではない。

私自身が高校受験の折、後に精神的な疾患で長期入院した暴力教師にクラス委員長の責任として理科準備室の実験台の上に押し倒されて首を絞められ殴られた経験やこの暴力教師のために今で言うクラス崩壊に至っていた当時のクラスの現実は今も怨みとして残っている。

このような教師は排斥するしかない。市長の問題行動よりも教育現場の改善!それが先であり、問題の本質なのではないのでしょうか!!

古くからある体罰問題。過ぎ去れば忘れてしまいがちですが、この犠牲になった方は多いと思います。教師と言う聖職を汚す輩から若者を守る事は全ての社会人の義務です。市長さんの主張も基本部分は賛同できても、その言動には反感を覚えてしまうのも批判の多さから計り知れます。長であるなら上手く舵取りをして欲しい。折角の「良い思い」もその言動で台無しにならないようにしていただきたいと思います。

今の社会の動向は大事な生徒、人一人の生命が失われたと言う大きな現実問題を失念しているように思われて仕方がありません。一人の品格を問うよりも先に成すべき事が在ることを、いま市長批判を繰り返している方々には自覚頂きたい。これはヒールとして目立ちたいかの様なパフォーマンス人間の術中にはまり、なおかつ、問題の本質を見失わせ様としている輩の行動に手を添えています。。

某市長さにんも、折角思いは正しくてもその主張方法に品格や戦略が無いために問題の本質を見失わさせた責任が大きくのしかかっている事を自覚頂きたい。









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