分を弁える

昨夜は合気道「至誠館」市役所道場での稽古日でした。いつもの事ですが、火曜日の至誠館は大賑わいで狭い生涯学習センター地下一階のリハーサル室は満員で、人いきれと熱気で汗が噴出します。

大人数でのかかり稽古状態ですので稽古は非常に活気にあふれ日ごろのストレス発散にはうってつけです。

横面打ちから内転換技の数々を稽古し、汗を噴出したところで稽古後は夜の幹部会です。

いつもの居酒屋「居心伝」が満員でしたので、私の提案でもつ鍋料理の「モッツー」さんに足を伸ばす事になりました。こちらのお店は名物の生レバーが大変おいしかったのですが、現在は生レバーは食す事が出来ません。あの懐かしいおいしい味をまた味わいたいものです。

ここで先だっての公益財団法人大阪合気会での鏡開き式の話に華が咲きました。色々と論争する中で表題の「分を弁える」と言うことについて考えさせられました。

バリ島に参りました折にサイクリングで地元の農家を尋ねたのですが、ヒンズー教の教えで年長者を敬う風趣が我が日本と同じようにあり、長である長老の住む家屋と若夫婦が住む家屋ではその敷居の高さが違い長老宅のほうが一段敷居が高くなっており、年配者への敬意を表しているそうです。

応対して下さった長老や現役の若主人との交流の中でも年長者への敬意が汲み取られ昔の日本のような気がしました。

目上とは年上を指します。それはその年配者を知っているかどうかではなくいずれの年長者にも一定の敬意を払うのが本来の姿だと思います。「この人は何々の関係があるから」とか「この人には合気道をおしえていただいているから」とか「授業料を払っているから」とかの打算的なものが優先する世の中は悲しいと思います。

敬老席なんて本来は不要なはずです。目上を立たせて若者が座っているのは恥ずかしいと言うのが「恥の文化」を誇る本来の日本の良さだと思います。

利害関係の有無に関わらず年長者を尊ぶのはそれが自分よりも長く生きてこられ色々な種をまいてこられた方々であり、その方々がおられた上での自分であり、その作物をいただくことが出来るのですから。人生の先人を尊ぶのは当たり前の習性としなければなりません。

また、敬語や丁寧語と言うものも大切です。尊ぶべき年長者や目上の方であっても意見が違えば論争になりますが、論争するからこそ敬語を使うべきであり、目下との論争であってもぞんざいな言葉ではなく丁寧語で応答する。これが相手とぶつからない極意でもあり、品位・品格でもあり、エチケットでもあります。

いくら酒の席での論争であったとしても目上に対して「そこまで言うんやったら」等の喧嘩言葉を使ってはいくら論議の主張が正しくても無礼千万で聞く耳が穢れます。

年長を尊び、たとえ論争する場合でも一定の礼儀を重んずる心は合気道のぶつからない精神として大事な教えだと思いますがいかがでしょうか。これが出来ないようでは武道や合気道を研鑽する意味がありません。最低限の当たり前の事だと思います。

この傾向は昨今のマスメディアのインタビュー時に目上に対して如何にもインタビュー記者が権限を与えられているとばかりにぞんざいな態度で質問を投げかけています。非常に見苦しいものです。例え敵であっても重んじる心を失ってはいけません。

昨今は利害関係を念頭に置く利己主義がはびこっております。理屈抜きで行うのが礼儀であり美しい所作であり文化であると思います。武道をたしなむ者として大事にしていきたい文化だとおもいます。

「礼」とは規範であり「仁」とは人を慈しむ心であり、思いやりで共生を実現するものです。「礼」と「仁」を尽くす事は合気道研鑚の目標でも有ります。

2013年の本日までの稽古時間/稽古日数=15時間/7日)

 

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