入身転換反射道探求の道

こんばんは。休日を満喫いたしております。

昨夜は合気道至誠館市役所道場での稽古に最初から参加することが出来ました。部署のノー残業デーだったので大半の部下は定時に帰宅しましたが、一名は本日まで休日も含めた三連荘で東京出張です。いつもの課長も9時半頃まで残業となったようです。明日の日曜日は二名が休出で私も場合によっては出社の予定です。

忙しい中、稽古のために課長を残して会社を出ましたが、やはり気になります。ただ、稽古の方は、稽古日数が減った分取り戻そうと寒い中汗を掻いて取り組みました。尤も市役所道場と稽古場となる地下一階のリハーサル室は、いつも稽古の熱気であったかいのですが・・・・眞武館の島本道場と比べると天国のような環境です。

今日は、朝から久しぶりに愛車BMW R1150RTにまたがり芝生総合スポーツセンター体育館に向かいました。やはり、バイクは良いものです。久しぶりにも係わらず12月に車検を受けたばかりですのでエンジンもスムーズで心地よいライディングとなりました。

芝生体育館での合気道教室でも昨日同様、稽古日数が足りなくなった分を取り戻そうと気合を入れて稽古を堪能させていただきました。今日は、一ヶ月ぶりに一番弟子K籐君も稽古に参加していたので一か月分の特別講習も致しました。

先日Twitterに「信念」のページに掲載させていただいている「入身転換反射道(序説)」をツイート致しましたところ、このサイトの「問合せ」ページより奈良の石川師範より、色々とお教えを頂きました。

大変ありがたく、この書き込みを終えたらすぐにお返事を書かせていただこうと思います。

「入身転換反射道」を私は相手の動きとして捕らえておりましたが、お教え頂いた事は、自身の動きについてのご示唆であり、観点を変えれば又新たな発見があるのだという気付きを頂きました。また、私が財団法人大阪合気会の合気学校で田中博昭師範からお教え頂いた事と全く同じことが田中博昭師範のご示唆として石川師範から示して頂いたのは驚きであり、田中師範のお教えは、ずいぶん昔からのお考えだったのだと今更ながらに感心させられました。

石川師範本当にありがとうございました。これからも宜しくご指導願います。今後も故田中万川師範の築かれた「入身転換反射道」について探求を続けて行きたいと思いますので宜しくお願い致します。

(2012年の本日までの稽古時間/稽古日数=48時間/19日)

 









  1. NOKUSEKU

    今日は、日曜日で仕事がお休みですが、明日、明後日のデイでのイベントの為の買い出しで、先ほど帰って来ました…。
    昨夜も、帰宅したのは、8時を過ぎていました…。
    なんだか、仕事三昧の日々で、「ハァ…。ヤレヤレ…。」です…。
    江見師範、上杉謙信が女性であったかも知れないという説、ご存知ですか?
    もしも、その説が本当なら、私は、上杉謙信はすごいっ!!と、嬉しくなります。
    金子みすずさん同様、尊敬する人物です。江見師範もです!!
    実は、私も、男だったらなぁ…と、思う事が、時々あります。
    上杉謙信は、自分の国、越後の国を、全身全霊で守り、民をとても愛し、他国には自ら攻め入らなかった戦後武将みたいですね。
    そういう意味では、とても女性的な気がします。
    もしも、私が、男なら、江見師範の様な力強い堂々とした合気道が出来るのに…。
    こんなヒョロヒョロの貧弱な体では…。と、思う事が多々あります…。
    でも、きっと、私なりの強い合気道が出来るはず!!と、思い、稽古に精進致しますね!!
    上杉謙信を見習って???頑張って参ります!

    • こんばんは、書き込みいつもありがとうございます。本当にお忙しそうですね。

      男女の話ですが、先だっての稽古でも申しましたが、私はいつも女性の方がうらやましく思えます。

      私の道場でも至誠館でも、女性の方は、常に自分よりも大きく力強い男性を相手に稽古されておられます。だからこそいざと言う時であっても、どのような相手にでも臆することの無い稽古が出来ていると思います。

      私のような男では、常に自分より身体の小さな方や力の無い方とばかり稽古することになります。そのために大阪合気会では指導者勉強会を設けてくださっているのでしょうが、やはり日々の道場稽古で自分より大きな方を相手に稽古出来る方が良い稽古のような気がします。

      上杉謙信が女性だったという仮説は初耳ですが自分が戦国武将であったらどうであったのかと空想することはよくあります。

      我が家に伝わる家系図には、多くのご先祖が互いに戦いあっていた事や討死した記録があります。互いに戦いあっていたのは家を残すために、一方に偏らずどちらかが生き残る為の知恵だったのかもしれません。

      江見家自体、菅原家から伝わる血の流れ(菅家江見氏)は一旦途切れております。江見氏が一族郎党、赤子や子供までが殺戮された後に援軍として駆けつけて平定し、名門菅家江見家を失くすのが惜しいと言う事でその家を継いだのが我が家のご先祖です。その頃に生きていたならどのような働きをしていたのでしょうか?

      いやいや、そもそも長生き出来たのでしょうか?
      当時の「人生50年」を既に過ぎているのですしね!!

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