恒例幹部会(20101109)

今日は、毎月一度の第二火曜日「ミュンヘン」の250円ビールの日であった。

至誠館市役所道場の稽古後の幹部会は総勢9名でにぎやかな懇親会となった。

七番弟子T尾さんも幹部会の常連となられた。幹部会後、帰宅のためにJR高槻駅前に差し掛かったところ、幹部会に遅れて欠席となった携帯電話中のTMさんとばったり出会った。

電話の相手は、佐賀に帰られたM地さんとの事で、ちょうど門川師範の合気道指導40周年記念パーティーにわざわざ佐賀からお越しいただけるとお話しに出たばかりで、電話を交代していただいて久しぶりにお話しができた。懐かしい声で、しばらくお会いしていないのがうそのようである。

明日は、遠来の友キースが来阪する。合気道をしていると本当に友達の輪が世界に広がる。

追記:昨日の眞武館島本道場の記念画像は、このサイトのHOMEページ(表紙)にメイン画像として貼りましたのでご覧下さい。









  1. 昨日は懐かしいお声を聞くことができて感激しております。
    HP拝見しましたよ!門下生の方々も増え、流石だなぁ~と感服しております。

    27日、楽しみにしています!
    因みに、携帯に登録したはずのアドレスが何かの拍子で飛んでしまいました。I藤さんやW辺さん、M本さん皆様にもよろしくお伝えください。

    私の住んでいる近くに”江見八幡神社”なるところを発見しました。
    名前の由来などは今度聞いてみたいと思っています。
    http://www.miyakikankou.jp/main/374.html

    • お久しぶりです。

      私の江見と言う姓は、もともと備前備中あたりに菅原道真の末裔として菅原七氏があり、その一氏として江見家があったもので、江見家が他家との争いで一族郎党全滅した後で私のご先祖が赤松家として他家を征伐して平定し、赤松家の本家から江見家の名を継ぐように命じられて継いだものです。このため、現在は江見氏を除いた菅原六氏が末裔と言う事になっております。
      これは、我が家の家系図に記載されており、岡山の作東誌という古文書にも記載があります。

      ですから、血は繋がっておりませんが姓としては、菅原家とのつながりがあり、九州地方とも縁のある姓となっているのでしょう。
      携帯番号やメールの件ですが、私のiPhoneからメールを打ったのですが送信エラーになります。このサイトのアクセスページを利用して連絡先をお教えいただければ幸甚です。

      27日楽しみに致しております。
      棒ラーメンが大好物になった江見より

      • 江見 則勝

        江見様へ

        初めまして。私は京都の刀匠江見 則勝と申します。
        傍ら江見一族系図も研究しております。
        ネットで検索中、こちらのブログに辿り着きました。

        江見家の記録のある未発見の古書を探しております。
        図書館にはないような史料を探し、研究しております。

        中世の研究をしておりますので、もし史料をお持ちでしたら
        私の研究に協力して頂けると幸いです。

        一族は九州の福岡から新潟まで確認済みです。
        (私は美作菅家党族会の江見 則勝です)

        よろしければ、メールアドレスにお返事を頂けるとありがたいです。
        よろしくお願い致します。

        • 江見則勝さま

          はじめまして、江見一族系図のご研究中との事。ご連絡誠にありがとうございます。

          私どもは岡山美作市赤田の井之口江見本家から次男である父の代で分家いたしました赤田流江見家の流れと成ります。菅家であもり赤松家でもあります。

          井之口江見本家には、織田信長や羽柴秀吉からの恩賞を賜った折の古文書や江見家財宝を消失した事を記したお寺の証文等が残っております。

          家系図につきましては、男子に受け継がれ、私も結婚の際に本家の亡き伯父より系図の書き写しを頂き、来春結婚する長男にはその書き写しを託しました。

          随分以前にこの家系図が江見姓の他家に預けた事から流出し、現在ではとある大学の歴史資料館に保管されており、閲覧もままならぬ状況となっております。

          そのため家系図を継承する際に、伯父より家系図を他人に見せたり、預ける事はまかりなら無いと厳重に仰せつかっており、長男の婚約の際にも婚家にも釣書として一部を渡したのみで全文はお見せしただけです。

          美作菅家党族会との事ですので則勝様が、岡山江見本家の流れのお方かどうかも分からない中での大変失礼な物言いとなり申しわけありませんが、そのような事情ですので同じ江見姓であるからこそ、系図をお見せする事は出来ません。また、古文書や刀剣類も本家にはありますが、従兄弟も亡伯父の教えを守り、お見せする事は無いと思います。

          ただ、亡伯父からは、以前岡山江見本家の方のご尽力で、某大学歴史資料館の系図を閲覧する為にご一緒したと聞いておりますので、則勝様がこの岡山江見本家の流れの方であれば大変失礼な事を申し上げていると申し訳なく思います。

          私も多くの親族の末弟までは把握いたしておりませんので、もし則勝様が同じ井之口江見の親族であるならば、本家へ参られたら古文書や刀剣等は喜んで見せていただけると思います。

          大変失礼な物言いになり申しわけありませんが、事情をお察しの上ご了承願います。ちなみに井之口江見の本来の本家は随分以前に大阪の地にながれ、私と同じ高槻市に居を構えられております。

          私の父と母は、その流れを統合する為に高槻流本家江見家の親族筋と赤田流本家江見家間での親族結婚として血を薄くしないように婚姻しております。

          そのため父方の親族も、母方の親族も何代かさかのぼると同じ方に成ります。この流れの中の方であれば喜んで系図もお見せいたします。

          • 江見 則勝

            江見様へ

            ご返信下さいまして、ありがとうございます。
            私は赤田の山田喜助盛次広島藩士三百六十石後江見半之丞盛勝川上村大門に新免の親族により、川上村に移住し壬生赤田に流れて村役をし、総領家は医者になり、華岡青洲の門人も輩出しております。私どもの家は寺子屋をしておりました。総領家(美作天神山城)とは今でもお付き合いがあります。総領家に毛利元就の中世文書が1通残っております。豊臣と信長の文書は原本は思文閣にて平成19年に650万円で落札されました。写しは江戸期に写されたものが多々見られます。19年に落札されたものは本物です。私は分家になります。赤田の流れの古い時代はほぼ解明できていますが、中世に関しては混同が激しいです。江見様は江見長兵衛の末裔になられると思います。もしよろしければ、教えていただける範囲だけで構いませんので、また史料をお見せ頂けるとありがたいです。

            私は現在京都府亀岡市にて刀を打っております。

            • 盛勝は江見家11代になりますね。山田姓(嘉兵ヱ尉)であったこと、安藝国太守正則公正盛公に仕えて五百五十国を賜ったと私の手元には記録されております。その後川上村に移住したことも同じで私どもの源流であることも同じです。

              そこから二代おりて13代盛祐の時に赤田に移り、仰るとおり私は十六代政明(長兵衛)の末裔であり、私の知る限りでは赤田の父の実家、現在の赤田井ノ口本家の墓所には十五代政邑(江見善次郎)のお墓もあったと記憶しております。

              それ以前のお墓も現存しますが多くは小さな五輪の塔であったり自然石であったり、山中の離れたところに墓所があったりで私はよく存じません。中には永年墓所への階段か縁石だと思われていたものが倒れた墓石であったことが判り、丁重に供養しなおしたものもあります。亡き伯父が現在の自宅横の一族の墓所に裏山の山城跡等に散在する墓石を集めて供養されたのですが、江見初代や近年の系図も墓所の石碑として記録されていたと思います。墓所には立石村(赤田村)の寺子屋の師範の墓と言う無縁仏だといい伝わる墓もあるのですが関係が不明でしたが、則勝さまの縁者の方のものかもと今回思ったりもしております。井ノ口赤田本家は、赤田村の庄屋であったと伯父が仰っていたと記憶しており、現存地も立石村の川向の土地が江見家の土地として広大にあるところをみると間違いないと思われます。

              亡父は分家になるため、私が赤田の本家の墓所を離れ三木の地に新たな墓所を設けた事や、伯父も亡くなったので最近は赤田の地を訪れておりません。ただ、私の一家は赤田の地を本籍地と今も致しております。

              確かに信長や羽柴の古文書は幼い時期に伯父に見せていただいたので本物か写しかは判りませんが、則勝さまの仰る通り写しであった可能性が高いようです。

              私が住む高槻の地の本来の赤田流江見家の本家筋の大叔父がかなり江見家系図について調査され、書家でもあられたので巻物にまとめられておられたのですが10数年前に他界されました。系図としての巻物がどうなったかは存じません。

              私の手元には、赤田井ノ口本家江見の亡伯父から頂いた系図の写し、それも伯父が自分の為に書き写した下書きのコピーと私が長男の為にそれを写した物しかありません。高槻の大叔父も調査結果と高槻江見家に伝わる系図と、井ノ口本家の系図を常々照らしあわしたいと仰っておられましたが、実現せぬままに亡くなられました。

              追記:則勝さま、このサイトは、私どもの合気道 眞武館の活動公開サイトと致しており、個人情報も含まれます家系関係は公開が阻まれますので、今後はメールにてご連絡させていただきたくよろしくご了承下さい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です