喜怒哀楽と正論

私は、結構喜怒哀楽が表面に出やすいたちである。

以前癇癪持ちについて書いたが、これも怒りが非常にわかりやすい形で外に出たものである。
喜怒哀楽は安易に表に出して良いものと、出さないほうがよいものがあるとおもう。
先の怒りは出来れば内なるものに控えたほうが良い。その修行を日々続けているのが現状である。

怒り以外の喜びや哀しみ、楽しみ等は表に現してもよいものだとは思うが、例え喜びであっても、それを表に出す場合はTPOがある。それがエチケットと言うものであり、エチケットと言うものは相手や周りへの心配りである。

また、良く「正論を述べよ」と言うことが言われるが、これについても何が何でも、どんな時も正論を述べればよいというわけではないと思う。やはりTPOがあり、状況に応じた相手や周りへの配慮が必要である。「正論」は非常に強力で相手に有無を言わさない強さがある反面、正論で論破された相手は二の句が告げられず圧迫感を感じることが多い。相手への逃げ場を封じ込めてしまう最終兵器である。それだけに正論を振りかざして強い語調で論破をよくされる方は嫌われ者が多い。私の業界だと、よく例えられるのが初心者のパソコン等の設定に関する質問に「先ず、マニュアルを読んでから質問しろ」といった上から目線の正論による回答例である。このフレーズを使われると初心者は何も聞けなくなり、コミュニケーションの道を失うことが多い。この回答のやり取りを見た他の初心者も萎縮し風通しの悪い雰囲気を構築する原因になる。

これは簡単な例であるが、正論を述べるということはそのようなリスクを孕んでいる事を理解すべきであるが、正論で論破することを得意とするものは、そのことに気付かないものが多い。正論を述べているのであるから自分のどこが悪いのだという正論を述べられることが多いものだ。

私は正論は常に腹の中に持つ必要があるものであり、その正論へいかに相手を導くかがコミュニケーション能力の高さの評価の基準となるように思う。つまり、単に「正論」を発して相手を論破することだけに汲々としている者は、実はコミュニケーション能力が不足していると思われる。

正論を直接的に相手にぶつけることは合気道の技を施す時に、真正面に力をぶつける行いと同じ様に思える。ぶつからない動作が大事である。相手とぶつからず和合していかに導くのか、コミュニケーションの基本も同じと思える。

何故この様なことを書くのかと言うと、今日とある事である方にお願い事をしたのですが、理由があるのでしょうが、頭から怒りの感情むき出しで正論にならない正論を大声で二の句を告げさせない勢いでたたきつけられたからです。お願いされた依頼主も、中を取り持った私もあきれ返ってしまいました。

断られてもやむを得ない依頼事でしたが、そのような感情むき出しで正論を述べて拒絶するような事でもなく、断るにしても穏やかに話せば済む話でした。人間の気品の高低はこの様なコミュニケーションの際に現れます。品格とでも申すのでしょうか、上品な会話を楽しみたいと心から思った瞬間となりました。

反面教師と言う言葉があります。今日の参加者の大半が正論者に対して疑問を持ち、困り果てていました。この様な評価を抱かれないよう隙の無い会話を身に付けたいと思います。合気道はそのような時にも実践できるのではないでしょうか。

また、自分が信じる正論は、時や場合によって間違えていることも多々あります。正論だと思っていても相手の言い分もよく聞き、間違えに気付いた時はいつでも潔くその論を撤退させる勇気と度量の大きさも必要です。

徒に「正論」を振りかざす方は、度量が狭いと評価されることが多いことも事実だと思います。わが身を振り返って身を正したい経験でした。

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