癇癪持ちの合気道

私は生まれついての癇癪持ちである。要するに非常に短気である。

短気は損気と言うけれど、損をした覚えは無いが、直さなければと幼い頃からずっと思い悩んでいる。

幼い頃はよく母に「腹が立ったら、先ず数を数えて気持ちを落ち着かせなさい。」と言われたものである。
思春期には、夏目漱石の「坊ちゃん」の主人公や山嵐のような癇癪持ちに共感し、それがかっこ良いと思った時期もあった。

そもそも合気道を始めた動機のひとつが精神修行をしてこの癇癪を直したいと言う事でもあった。

ところが、道場師範となった今も癇癪は直っていない。ただ、道場等の合気道の場で癇癪を起こしたことは全く無い。逆に家庭や職場ではしばしば頭をもたげる。癇癪を起こすとこの容姿である。周りがしーーーんとなり、中には大の大人なのに涙目になる男性もいる。癇癪を起こしている最中はしまったと思う事も無いが、時が過ぎると猛反省をするのが常である。

最近ひとつの事に気付いた。癇癪持ちを直そうと、母の言う様に腹が立った時に対処療法で対処しようとしてきたが、全く効き目が無い。というか、癇癪が出てくるときは一瞬なので、数を数えている暇がなく、そのような余裕があるのなら、逆に数を数えなくても癇癪は顔を出さない。つまり対処療法を用意していても全く役立たずなのである。

なぜ、合気道の場、特に道場で癇癪が頭をもたげないのか。それは合気道を大事に思い、周りの方々との仲を大切にし、特に教える立場では、お教えすることに心血を注ぐ熱心さから、相手の方の事を慮る愛情が深いからである。

家庭でも子供たちには叱った事があっても感情で怒った事は殆ど無い。子供に対しては父としての深い愛情があるからなのであろう。ここに解がある。

合気道は「万有愛護の心」を養うのが目的でもある。癇癪持ちを直そうとするのではなく、家庭や社会生活等の実践の場でもこの「万有愛護の精神・心」を発揮できるようにならなければならない。他と徒に争わない心、生きとし生けるもの全てを飲み込み愛する心が癇癪を消滅させる。

道場の中だけの合気道をしてきたつもりは無かったが、本当の実践合気道のあり方を読み間違えていたようだ。何をいまさらと仰る方もおられるだろうが、思い立ったが吉日、今日からこの気付きを実践して、二度と癇癪を起こさないことを誓いたい。癇癪を起こさないのではなく、全てを愛して徒に争わないのである。

誰に言われたわけでも、そのような癇癪を起こした場が近々に有った訳でもないのだが、これまでの合気道修行の道を猛烈に反省している今日この頃である。

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